(「前編」を見る)
山全体がお寺の境内となっている高野山。
見どころが東西に広がっているのでバスを利用する人が多いですが、大門から奥之院の入口までは約3kmほどなので、神秘的な町並みを味わいたい方には徒歩もお勧めです。後編では、なぜ空海が真言密教の聖地として高野山を選んだのかを知ることができる場所もご紹介します。
それでは高野山観光の後編スタート!
◆高野山二大聖地のひとつ、壇上伽藍
壇上伽藍(だんじょうがらん)は、弘法大師空海が高野山を開創した際に真っ先に整備に着手した場所で、高野山全体の境内地の中核と言える場所に建っています。目を引くのは高野山のシンボルとも言える、朱色が美しい根本大塔(こんぽんだいとう)。日本最初の多宝塔としても知られています。
ほかにも金堂や御影堂、一回りすれば徳が得られるとされる六角経蔵などが建ち並び、粛々とした雰囲気に包まれていました。
壇上伽藍 金堂(こんどう)
壇上伽藍 中門
壇上伽藍 六角経蔵
壇上伽藍 御影堂(みえどう)
◆三鈷の松(さんこのまつ)
壇上伽藍には柵で囲われた松の木があるのですが、実はこの松の木こそ、弘法大師空海が真言密教の開祖の地として高野山を選んだ由来なのです。
壇上伽藍 三鈷の松
空海は唐に渡り仏教の修行をしていましたが、日本へ帰国するにあたり真言密教の教えを広めるのにふさわしい場所を探すために、三鈷杵(さんこしょ)という密教法具を投げたところ、日本へ飛んでいったそうです。帰国後、教えを広める場所を求めて日本中を周っていたところ、この松に引っかかっている三鈷杵を見つけ、高野山を真言密教の道場とするにふさわしい地として確信したのだとか。このことから三鈷の松と呼ばれています。
なお松の葉は通常2本ですが、三鈷の松の葉は三鈷と同じく3本になっておりご利益があると言われています。そのため多くの参拝者が松の葉を持ち帰りお守りにしているそうです。私もあやかって松の三本葉をいただいてきました。
◆豊臣秀吉にゆかりのある金剛峯寺
金剛峯寺(こんごうぶじ)は、正式には高野山金剛峰寺という名称で、高野山真言宗の総本山です。いまは1つのお寺の名前ですが、高野山は一山境内地として山全体が境内となっていること、また金剛峯寺の山号が高野山であることから、もともとは高野山全体と同義だったそうです。ちなみに「高野山」という山は地理学上はなく、地域全体を指す名称となっています。
金剛峯寺 蟠龍庭(ばんりゅうてい)
金剛峯寺という名称になったのは明治2年のことで、境内にあった青巌寺と興山寺が合体した際に金剛峯寺と改称されたとのこと。この青巌寺は、豊臣秀吉が母である大政所の菩提のために建立させたお寺で、大政所の剃髪を納めたことから当初は剃髪寺と呼ばれていたそうです。
金剛峯寺 大玄関
写真は撮れませんでしたが、大広間、梅の間、柳の間などのそれぞれに美しい襖絵が描かれていました。茶の間の襖絵は千住博画伯が奉納されたのだそう。(ここだけ写真を撮ることができました)
金剛峯寺 千住博襖絵
◆奥まった高台に建つ徳川家霊台
三代将軍の家光が初代将軍徳川家康と二代将軍秀忠を祀るために建てた徳川家霊台は、江戸時代の代表的な霊廟建築として国の重要文化財に指定されています。ここはかつて高野山の聖方の代表寺院だった大徳院の境内でしたが、大徳院が他の寺院と合併して廃寺となったため、裏山にあった霊台だけ残されたのだそう。だから少し奥まった場所にあるのですね。
霊台は2つ並んで建っていて、右側が家康霊屋(たまや)で左が秀忠霊屋です。家康霊屋の前にだけ鳥居があるのは、家康公が東照大権現という神様として祀られているからだとか。2棟とも同じ建物に見えますが、生まれ年の干支にちなんで家康霊屋には虎が、秀忠霊屋には兎が彫られているとのこと。どちらの霊台も細かい彫刻と金の飾り金具がほどこされていて、雨の中荘厳な雰囲気に包まれていまし
た。
徳川家霊台 家康霊屋
徳川家霊台 秀忠霊屋
雨が降って肌寒く・・・というあいにくの天気でしたが、この他に両界曼荼羅図など多くの美術品が収蔵されている霊宝館と、高野山が女人禁制だった頃に女性がそこまでしか立ち入ることができない場所だった女人堂も訪れ、高野山のすべてを満喫できた1日となりました。奥之院が駆け足になってしまったので、次回は宿坊に泊まりのんびり回りたいなと思います。
スタッフTK
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