倭の国への渡来人~高句麗の文化が残る地で高麗の歴史に触れる

埼玉県の南部に位置する日高市。
江戸時代の末頃は日高市・飯能市・鶴ヶ島市の全域と、狭山市・川越市・入間市・毛呂山町の一部が「高麗郡(こまぐん)」と呼ばれており、日高市には今でも「高麗」という名前が付く地名や名称が多く残っています。
高麗という漢字を見ると、朝鮮半島の王朝だった「高麗(こうらい)」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。なぜ日高に「高麗」なのでしょう。繋がりはあるのでしょうか?

 

◆ 高句麗からの渡来人が住んだ武蔵国

紀元前より中国東北部から朝鮮半島にかけて栄えた高句麗。百済・新羅と共に三国時代を築いた王朝でしたが、668年に新羅と唐に滅ぼされて国がなくなってしまったため当時倭と呼ばれていた日本に多くの人が渡ってきたそうです。その後716年に関東各地に住んでいた高句麗人が武蔵国に集まり「高麗郡」ができました。高句麗は別名「貊(はく、狛)」と言われており、狛を「こま」と読むことから日本では高麗も「こま」と読んだのだとか。
また高句麗が滅んだあと、後百済を倒して朝鮮半島の後三国を統一したのが高麗(こうらい)です。
そのため同じ「高麗」の字でも「こま」と「こうらい」と2通りの読み方があり、読み方によって何を指すかが異なるという背景があるのですね。

 

◆ 高麗王若光を祀る高麗神社

武蔵国だった日高には高麗(こま)のつく名称が多く残っていますが、その一つが高麗神社。
高麗郡という地を与えられたものの、未開の地で苦労が多かったと言われる当時の武蔵国。その地で軍民を導いて開発に尽力した高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)が亡くなった際に、霊廟を建てて「高麗明神」として崇めたことが高麗神社の始まりと言われています。高麗神社の宮司は若光の子孫が代々務めており、現在の宮司で60代目にあたるのだそう。

 一之鳥居と二之鳥居の間には、将軍標(チャンスン)という朝鮮半島の魔除けが立っていました。かつては村の入口などに設置されていたそうで、天下代将軍と地下女将軍が対になっています。


高麗神社将軍標

本殿の手前の御神門には、よく見ると高句麗神社と書いてあります。これは御祭神である高麗王若光の故国である高句麗と、後に興った高麗(こうらい)と区別するために小さく「句」を入れたと言われています。


御神門

高麗神社御本殿

境内の奥には、若光の末裔である高麗家の旧住居である高麗家住宅も。東日本の中では古い形を遺している極めて貴重な例ということで、国指定重要文化財に指定されています。隣には樹齢4000年を超える枝垂れ桜があり、桜の季節には住宅との風情がひときわ美しいそうですよ。

 

◆ 高麗王若光の菩提寺 聖天院

高麗神社の近くにも高句麗を感じることのできる場所があります。それが高麗神社から歩いて5分ほどのところにある聖天院(しょうでんいん)。正式には高麗山聖天院勝楽時といい、山号に高麗の名前が残っています。
聖天院は高麗王若光が亡くなったあと侍念僧勝楽が若光の菩提を祈るために751年に創建した若光の菩提寺で、若光の守護仏である聖天尊(歓喜天)を本尊としていましたが、その後時を経て現在は不動明王が本尊となっています。

 

奈良時代創建の古刹を感じさせる山門は市指定文化財。風神雷神も迫力がありますね。


聖天院山門

中門の先には庭園と阿弥陀堂、その奥の階段を上ると鐘楼と本堂があります。高台に建つ本堂前の見晴台からは、富士山を望むこともできるそうです。その日はあいにく見えず残念。。。また鐘楼のさらに奥には、戦時中に亡くなった在日韓民族の無縁仏の供養のための慰霊塔もあります。

 

◆ 若光が眠る高麗王廟

山門の手前を右手に進むと、高麗王若光のお墓である高麗王廟が見えてきます。
創建当時より境内が後ろへ移ったためこの位置となっていますが、以前は境内の中心にあたる場所だったのでしょうか。小さなお堂の中にある多重塔の下の方には四体の仏様が刻まれたいましたが、柔らかい砂岩のため長い年月で風化してしまったそう。
この多重塔も日本の塔とは形が異なり、朝鮮半島の文化が感じられます。

 

なお高麗神社は、参拝したあとに総理大臣になった人が6人もいることから出世明神としても有名な場所で、開運・上昇の強力なパワースポットとも言われています。高句麗の歴史に触れたい方、パワーをいただきたい方はぜひ高麗へどうぞ!

 

スタッフTK

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